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どーでもいいお話とか、創作語り。ネタバレ容赦なし。
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先週の放送(第十一話?)を見てふせったーを使って綴りました私の中の土方組解釈を。活撃云々考察ではなく、活撃を見るまで思っていた私の中の土方組についてです。
一言いっておきますとアリ・ナシはさておき私はCPは堀兼派でしたし、今もまだ一応そうです。

※活撃やフォロワーさん、検索での発言を見てあぁいう展開に「なるほど」と感じたので、決して批判とかではなくあくまで自身の中のこれまでの整理としてのメモです 

【歴史】 
堀川→ずっと前から一緒にいる、最後まで一緒にいた/最後は堀川だけ処分された 
和泉守→途中から出会った、最後まで一緒にいられなかった/処分されず今も子孫のところに残っている 
土方歳三→近藤勇とずっと一緒にいた、最後まで一緒にいられなかった/函館は死に場所を探しての結末である 

っていうのを前提(すんごいハマってたときに刷りこんだからwikiだか支部だか何知識か覚えてないし歴史だから根拠さえ曖昧だけど)で考え、 

【ゲーム】 
堀川→和泉守の話が圧倒的 
和泉守→土方の刀であることが誇りであるような発言が多い 

として。さらに私の場合、歴史に沼ったきっかけが某乙女ゲーなのでその思考が少なからず先入観としてあるとする。こう、乙女ゲーってメンタル介護感がすごいので。 
因みに私が一番その土方√で好きなのは「近藤さんを守れなかった…」って時にヒロインが付け入るように後ろから慰めてあげるところです。いいぞ。まぁそれはおいといて。いやこの思考にこれも関わっているかもしれない。 

で、本題です。 
私の中では活撃のような展開が本当にびっくりで、上記の歴史やゲームの点からとどこぞで培ってしまった先入観故か、闇堕ちというか「土方を守れるとしたらどうする?って質問に任務を放って、頷くのは和泉守」だと思っていました。 
だって歴史って普通だったらもう二度と繰り返せない(その場に行けない)ものなので。武士としての本望はお国のためにではありませんが、こう、生き残ることではなく戦って生きることだというイメージがあります。でも新撰組が生きていた時代は和洋が入り乱れる時代で、何もかもが進んで行った。それこそ、刀なんてもう必要ない時代になってしまう。自分たちが信じていたものが、どんどんなくなっていく。しかも函館の頃には仲間もほぼいない。戦いでしぬ奴もいれば未練たらたらにどうしようもなく死んでしまう奴もいる。そういう奴って言うじゃないですか、「近藤さんともっと一緒に戦いたかった」って。先入観ですが。そこが和泉守と似ていると思うのです、土方が「近藤さんがいなくなった今、武士として戦って死ぬことが本望」だったなら、和泉守だって「土方がどう決断したにせよ、ずっと一緒にいることが本望」のはずです。(余談:江戸の刀の魅力は主人が一人っていうところにもあると思っています) でもそれは叶わなかった、一緒にいたのは堀川で、ずっといたのは堀川です。故郷に返され、処分となっても代わりに行ってしまったのは堀川。いつも和泉守は一人で残されてる。近藤も土方を守ってくれたけど、それって全然嬉しいことではないじゃないですか。寧ろ彼のために生きてきたのに、それを失ってしまったならどう生きればいい?勿論土方のように理屈ではわかると思います、でも、ここは活撃の「堀川は部隊編成されて月日が云々~」と被るんですが「和泉守は堀川と比べて土方歳三と共にいた月日が短すぎる」。堀川も自分がついていながらどうしてあんな結末に、と言ったそういう葛藤のような気持ちは同様に抱えていると思います。でも堀川は、和泉守と違って土方とずっと一緒にいた。最期も一緒にいた。ここが決定的な二人の違いです。それなら近藤を失った土方が物理的に戦うことをやめなかったように、堀川にも独自の、主と共に過ごしたぶん相応のそれなりの何かがあるはずです。欲望というか願望に対し、自分を律するだけの経験と月日があるか否かの問題なのです。貫き通した信念を隣で見たからこそ、堀川には堀川の守っていきたいものがある。だから(まぁここは自主的ではなく当時の云々の理由があるでしょうが)、和泉守の代わりに処分される。 
と、まぁそんな信念を知り同じように貫き通した方はいいとしましょう。信念を通した主と長い月日を過ごし、最後まで看取ったからこそ自分もその信念を貫く堀川。でもこれ、今年どこぞの好きキャラがしんでもずっと考えていたことなんですが、残された方はどうなんですか?死んだ方はいいかも知れませんが残された方は堪ったものではないです。堀川が土方の信念を看取った側とするならば、和泉守は近藤を助けられなかった、遺されてしまった土方の意思が反映されると思っています。自分が置いて行かれてますから。だから土方の刀だと強調する。格好良くて強いと言いたい。土方のようでありたい、主が最大に輝いていて見えた「隊長」を努めてくれる。自分が唯一見てきた土方を通して信じていきたい。 
文学の考察専攻がこんな文をだらだら書いていて呆れるんですが、ここで冒頭に戻ります。「土方を守れるとしたらどうする?って質問に任務を放って、頷くのは和泉守」のとこです。 
守れるっていうか、正確には自分もあの場(函館)に一緒にいたい、が主だとは思うんですが…。こう、歴史を正すことができない的な意味での闇堕ちってイメージです。「土方(の命)を守りたい」っていうのはそこに魔が刺したというか悪魔の囁きに唆されたといいますか。二度と繰り返せない歴史があって、ワケあって今もう一度その場に立ち会えるチャンスがある。土方が例えばそこで死にたいと思うなら、生かしてやる守り抜くなんてことはなくても武士の刀としての本望を叶えたい、ただ自分も一緒にいたい。生死は置いといて、禁忌でこそないもののそれは歴史を変えることです。歴史の中で和泉守はそこにはいませんから。しかも今は人の姿であり、そこに二つの和泉守がいると思うととてつもなくダメなオーラがします。けれど「生かしたい」が本来の目的ではないので、あくまで主の生き様の否定にはなりません。考える内にひょっとしたら目的がすり替わってしまうこともあるでしょうが。あのときできなかった自分の最大の後悔が、今そこで拭えるものとする。当時はなされるままの刀でしたが、今なら自分の言葉があり足があり、土方の側に自分の意思でいられる。今度は一緒に戦える。ひょっとしたら、それこそ今の活撃正反対なんですが土方の今後を築けるかもしれない。あんな悲しい結末はなかったかもしれない。堀川のように信念を通したくても、その最期を看取っていない和泉守にはそれにふさわしい在り方がわかりません。でも「残された後悔」は体験して、目の当たりにしてきた刀です。いつ云々って歴史を解かれると時間軸が怪しくなるので嫌ですが…笑 

と、長くなりましたが言いたいことはだらだらと書き留められたかな?と思ってここでやめます。 
まとめると、土方と共に過ごした月日が反映され、その信念の貫き方を知っているかどうかが二人の決定的な違いだと思っていましたし、思っています。というか皆さんそうだと思っていました。花丸の沖田組もそうです。刀なので恐らく悔しい思いをした時点で、彼らの時は止まってしまいます。もう一緒に戦場に出ることはないので。でも活撃ではそれの全く正反対で、「信念をみとったからこそ歴史を守りたい(変えたい?)」選択でした。検索やフォロワーさんがおっしゃっていた理由を、活撃最新話を見てすごいと感動しました。私は一個の解釈を作ったらそれ以外自分の中で考えられないタイプなので。でも学部の通りですが、根拠があり納得できるだけのものをもって話されるとその自分の中になかった解釈が最高にすばらしいものだと思えます。一つのものからこんなに違う解釈が生まれるってすごくないですか…。 

まぁそれはさておき、ここまで読んで頂きありがとうございました。 
最終回楽しみですね。あのまま函館に行って二軍だけで終わってしまうと、一軍の存在意味がイマイチわかりませんが。 

追記:改めて本家を見ると、活撃がめちゃくちゃ上手いこと回想を生かしてることを知りました。すごい(17/09/11)
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